土佐金一直線 (あくまでフィクションです)車 一徹

 土佐金との初めての出会い

 10年前、息子の誕生日の日、我が家は田舎なので裏の小川で丁度田植え時期で、鯉が水深が非常に浅い状態で背中を水面から出し、その部分を太陽に焼かれ泳げずに居た。此れも何かの縁と網で掬って、庭の大きな瓶に入れ飼育する事にした。ある日梅雨時期で大雨の翌朝、鯉はJUMPして瓶から飛び出て死んでいた。まだ小さかった息子に「鯉が死んでしまったから、金魚でも飼うか」と聞いたら、「うん」と言うので、ホームセンターで琉金やオランダやアズマ錦を買い、飼っていた。そのうち、親父が勝手に金魚やで高価なデカイアズマ錦やランチュウを買って来て俺に飼えと言う。しかし最初の頃は当然初心者なので、かなりの金魚を知識もないまま殺した。そのうち金魚の飼育書を買い捲り、殺さないように飼える様になった頃、金魚屋で土佐金に出会った。2歳魚で、今にして思えば小さかったがその退色前の鮒色に、不思議な魅力を感じ泳いでいた5尾を全て買った。

 まだ丸鉢や角鉢の存在など当然知らない素人ゆえ、60cmの水槽で飼っていて、仕事の合間に餌を遣りまくり、夜中に大酒飲んで帰ってからも、唯大きくしたい欲だけで餌を与え当然1週間以内に殺す。これを何度も繰り返し、試行錯誤の中、盆休みに山陰へ行きそこで出雲ナンキンと出会う。この時出会ったのが俺の金魚の師匠N氏だった。

 叩きやビニール池で悠然と泳ぐナンキンに、凄い衝撃を感じ、当歳を20尾分譲して戴き、足早にうちに帰った。そして殺さずにナンキンはどんどん大きくなるのだが、土佐金は相変わらず死んでいた。それでもめげずに金魚屋に通い土佐金を買い続けたその頃、「そうだ、高知へ行って土佐金を買おう」と思い立って次に日には瀬戸大橋を渡っていた。

 

 高知市内に入って、おばあさんが一人でやってる熱帯魚屋に飛び込んだ。そこには7歳になる巨大な土佐金がプラ船のなかでダルそうに泳いでいた。俺が黙ってじっと見ていると、おばあさんがそれを買えと言うでもなく、広島から来たと言うと「あんたは運がいい、今日丁度高知城の下の藤並公園で品評会をしちゅーで」と聞くが早いか俺の190Eは高知城に向かっていた。しかし中々その公園が判らずやっと見つけたその公園で、数多くの洗面器を見たとき「やった」と心の中で叫んだ。夢中で見ている俺の耳に何か耳障りな香具師の声がした。その人はえんえんとしゃべり続け、誰に言うとも無く品評会の進行に関係なく口は閉じない。ときには高知の土佐金の話、或いは東京の土佐金の愛好会の話、ついには後に俺の師匠であるT氏の話、なんの絡脈もなくえん炎円ENと続いた。

 

 素人目にいい魚が当歳にずらっと並んでいて(今思い出しても当歳は良かった)、それが全部同じ人の魚だった。幸運にもその人が分譲魚を並べており、「幾らぐらいですか?」。

「そーやねー、大きいがが2000円、小さいがが1500円」、「全部下さい」、「え、全部」、「ハイ」。

 「やった、買ったぞ」そう心のなかで叫びながら、2時間後には瀬戸大橋を渡っていた。BGMのFIRE(ASWAD&SABBA RANKS)の様にその日を境に土佐金に、熱くはまって行った。と同時に俺の中でREGGAEはCOOL DOWNして行った。

 部屋の中の約5000枚のレコード、それらが徐々に埃にまみれて行った。BLACK UHURUが、MAXIがJACOBがHEPTONESが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・底なし沼に沈むように部屋から消えていった。俺の青春の多くを共にしたREGGAEは終息して行った。

 

 この頃から俺の本屋通いが盛んになった。土佐金と書いてある物は何でもかった。古本屋を電話帳で調べ片っ端から回って、古い金魚の飼育書を買い捲り、読みまくった。そんな時偶然本屋で手にしたM書房のFマガジンに出ていたトサキン保存普及会の前年の記事が俺の目に留まった。すぐにレジで代金を払い帰るとすぐに(携帯の無い頃だった)事務局に電話した。会費の2000円を送金して、4日後に会報が届いたが、その4日間は大学の合格通知を待つより落ち着かなかった。

 直ぐに目を通し「土佐金の飼育は難しいのでベテランの指導をうけて下さい」と書いてあり、ためらいながらも東京へ電話をかけた。ここで俺の師であるT氏と出会った。本当の意味での俺のトサキン飼育はここから始まった。

 素人丸出しの俺に、T氏は熱心に、本当に解りやすく教えてくださった。何度も何度も電話をかけ「いい加減にしないと、嫌われるんじゃないか」と思うくらい電話した。その年の年末に

「伺って分譲して頂きたいのですが」と言うと師匠は「今はだめだ、6月ぐらいじゃないと」。こうして約7ヶ月おれは待つ事になった。

 

     初めての産卵

 翌年初めて、産卵を経験した。実は正月暇で、「そうだ、高知へ行こう」と朝おきてそのまま瀬戸大橋を渡った。しかし、あてもなく熱帯魚店へ。「高知は2つ会があって・・・・・・・・・・・・・・・」と聞くとすぐに電話でN氏に連絡をとった。「1時間後位にきてくれ」と言われ時間を潰し、図々しく尋ね、2時間位話を伺い、帰ろうとすると「Tとこの会員なら手ぶらで返すわけにいかん」と当歳を8尾「持って帰って仔を引いたらええわ」と、お礼も固辞され何度も頭を下げつつ高知を後にした。帰宅後はすぐにプラ船に入れ、春を待った。

 その頃はまだ室内でも金魚屋で買った土佐金が泳いでおり、ヒーターを入れていたので冬もずっと餌を食べていた。結果、明け2歳が随分大きくなり、3月水槽の水草に産卵。初めての事で、慌ててプラたらいに水を張りヒーターを入れ、孵化を待った。4日後孵化したが、すでにシュリンプもマニュアル通り孵化させて、すぐに与え始めた。ろくな物ではなかった物の、初めて自分で採って育てて、随分自信になった。しかし、その後、5月に高知のトサキンがやっと産卵するも、産卵後次々と2歳が死んでいった。今思えばヘルペスだった。その頃の俺には治す方法は何1つ解っていなかった。わずかの2歳と稚魚は残ったが、この事をT氏に報告すると「じゃあ、6月末に分譲してあげるから」。

 

 そして月末を迎え、新幹線に乗り東京へ向かった。6時間かけてやっと到着するとすでに、お願いしていた当歳、2歳そして「これはあげるから」と親魚を2尾が袋詰めされていた。一通り魚を見せて頂いたが、「凄いすごいスゴイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」今思い出しても凄かった。全てが“土佐錦魚”だった。今まですべて見た中でも最高の土佐錦魚ばかりだった。その日は夕食に極上の鮨をご馳走になり、ご迷惑にならないように横浜の先輩の家に泊めてもらったのだが、その時もう1つT氏に喜んでもらったことがあった。

  

 それは俺が持参した餌だった。「これは今私が使ってる餌です、もし良かったら使って見て下さい」そういって渡した餌がそれから当分、会で会員が随分使ったKDと言う餌だった。「あっ、そう、じゃあ使ってみるよ」そうT氏に言われ、翌日家に帰ったのだが3日もたたないうちに家に電話があって、「あの餌は良いよ、俺が製造元と交渉して安くさせて会員に使わせるから」とめずらしく興奮ぎみに電話を戴いた。しかしそれでもその餌は他の物に比べれば、数段高く、会員間に広まるには少し時間はかかったが、誰もが絶賛し使うようになった。しかし数年後その製造元が資金繰り等で販売を他に委託してから、グレードがどんどん下がり(値段も下がったが)じょじょに使用する人が少なくなり遂には俺自身も1昨年で使用を止めてしまった。なんとか昔のグレードを取り戻して欲しいのだが。それほど素晴らしい餌だったが、もう無理かもしれないが。

 

 そしてその年初めて品評会に参加する事になった。「とに角参加だけでもして見よう」と2歳2尾と当歳3尾を持って(背中にしょって)東京に行った。すべて他の人から分譲してもらった魚で(当然だったが)。

 会場である百貨店の屋上で、初めてゆえ何をして良いのか解らない俺に何かとアドバイスをくれたのが、1ヶ月ほど前に知り合ったI氏だった。雨の中行われたその大会は、今思い出しても良魚が多く「俺には早すぎた」と言う思いだけが記憶に残っている。結果は2歳が1尾16位、当歳が1尾30位と当たり前だが散々だった。

 その頃はまだ初心者の域を全然出られないレベルだったし、熱心だけがとりえだったが、とにかく参加してから「いつかは俺も上の方に並ぶぞ」そう生意気にも思っていた。

 

 翌年の春高知のN氏を再び尋ねた時から、また飼育に変化が訪れた。その時に紹介されたI氏に夏の高知の品評会の後、自宅に招待され3枚の丸鉢を譲ってもらった。そしてその時自分で採った当歳を、多くはプラタライで飼育したのだが3鉢分その丸鉢にいれ品評会まで飼育した。結果、その年その丸鉢で飼育した自家産の当歳が1尾17位に入った。その魚は翌年も2歳で9位と初めてBEST10入りを果たしたのだが、あの時の嬉しさがあって益々土佐金の魅力に惹かれて行った。その品評会の2週間後高知の、N氏やI氏他と出雲のN氏のところに出雲なんきんを見学しに行った。その時が、初めてのT氏との出会いだった。もっともT氏に色々とお世話になるのはその翌年からだったが。

                           

       Tさんに出会って

 この時、8人の高知の土佐金の会の関係者と共に出雲に行ったのだが、この中にTさんがいた。この時は2台の車で行った為、Tさんとは一言も話す機会が無かった。初対面で有ったし、車も別々でしかも高知から日帰りで出雲に行った為、高知の人とは車の中でしか話が出来なかった。

翌年春、たしか春分の日だったかと思うが、やはりN氏宅にお邪魔してこの時に他の会員の家にも連れて行ってもらい、数多くの土佐金を見る事ができた。何れも会では有力な人達ばかりで、数々の素晴らしい固体を見る事が出来、今でもN氏には感謝している。

 この日、一番最後に訪れたIさんのところで色々と飼育について話をしていたとき、電話でIさんが呼んで、来たのがTさんだった。しかしこの時は時間が無く、そのあとN氏宅に再び寄って、帰路についた。

 それから8月、10月と品評会のたびに高知をその年は訪れたのだが、8月にIさん宅を品評会後に訪れこの時前記したように、丸鉢を3個戴いた。しかし他に丸鉢はその頃あるはずも無く、多くの当歳はプラたらいで飼育していた。このことをやはり10月高知に行った時、話の中で「やっぱり土佐金は、丸鉢でないと出来んきねー」といわれ、しかし作る方法などあるはずも無かったのだが、東京の品評会が終わった(初めて自分の当歳が17位になった時)数日後、Tさんから電話があり「やっぱり丸鉢が無いと駄目ですね」などと話をしていたら、「僕が自分の丸鉢を作った型が、人に貸してるけど返してもらって送ってあげる」と言われ、「有難うございます、すいません」と礼をいい、電話が終わったあとはいつ来るかそればっかり考えながら、数日後に到着して直ぐにお礼の電話をかけ、色々アドバイスもうけ、次の日からすぐにホームセンターで材料を揃えて、仕事の後夕方食事も忘れて作った。しかし最初の1個は砂を入れすぎて、型を外したとたんに2つに割れた。夜裏の川にコッソリ流し(絶対真似はしないように)、翌日また作り始めた。2個目はどうにか完成し(いまも使っているが)、結局春までに15個くらい作った。はじめの3個は中に何も入れないものだったが、4個目からはUの字になってる細い針金の束をホームセンターで見つけ、これを何十本もモルタルの中に入れ強度をUPさせた。

 この頃はヒーターを使って3月にはもう産卵させていた(今思えば馬鹿なことをしていた)ので、丸鉢に入れるのにもヒーターも一緒に入っていると言う、今では考えられない事をしていた。初心者の頃ほどこういう回り道を誰でもするものだが。しかも今のように金魚小屋の規模も大きくなかったので、丸鉢は金魚小屋の外のアスファルトの上に置いていた。ヒーターを鉢に入れているものだから、水がいたみ易く鰓病で死んだり、赤班病が出たりとよく失敗があった。しかし選別も含めTさんや師匠に度々電話で色々アドバイスを戴き、金魚もだんだん土佐金に成り始めた。

 この年の夏、金魚小屋を死んだ親父〔2000年死去〕が「ワシが作ってやるからもっと広いところで飼え」と、駐車場の上に金魚小屋を作ることに成った。色々な設備等で300万くらいかかったが、おかげで飼育環境は素晴らしくUPした。

 ホームセンターでプラ船と発砲を買い、側面に木工ボンドで貼り付けて、と、どんどん容器を増やしていった。冬になれば再び丸鉢を作り、多分この時は20個とオフシーズン中作っていた。度々薬局であく抜きに使う氷酢酸を買うものだから、不審がられたり屋根の上にゴロゴロ並べられた丸鉢を、通行人に下から不思議そうに見られたり。材料の砂も色々川の砂を使い比べ、実にバラバラな出来のものが出来たが、今にして思えば、よくあんな体力(丸鉢作りは体力がいります)があったものだと思う。

 知り合いに頼んでエアブロウを貰い、塩ビ管をつないで全てのプラ船にエアーが行くようにして、と、この年はずっと一年間仕事以外は金魚の事ばかりしていた。しかしその年も品評会の成績は、2歳は8位と健闘したものの当歳は13位どまりで、なかなか結果が出せないでいた

 出雲のN氏から糸ミミズをこの年は送ってもらったりしたが、経験不足ですぐに死なせていたので殆ど人工飼料に頼っていた。ミジンコは居たのだが。Tさんも師匠も口を揃えて「当歳は糸目」と、何度もいわれ探してはみたものの見つからず、壁にぶち当たっていた。

 しかし翌年の春、隣町で俺の真似事をしながら土佐金を飼っていたN氏が(ホントにNさんとTさんばかり良く出るが)、鉄工所と言う仕事柄あちこち車で走り回っているうち、市内に大量に糸ミミズが湧いている所を見つけてきた。

 

   糸ミミズ発見

 休みの日を待って、早速そこに行った。幅が5Mもあるその川は半ドブ川で、至る所に沸いていた。多いところでは畳1畳くらいの幅で沸いており、泥ごと掬ってバケツにいれて軽トラの荷台に乗せて持ち帰った。最初は分離の仕方も解らなかったが、Tさんに聞いてやって見ると、簡単に2,3KGは採れた。採りすぎて最初の年は随分腐らせたが、とに角1度行けば10分ぐらいで2,3週間分採れて、2年間は当歳は秋までずっと糸ミミズを食べていた。その川にはミジンコも5月から8月頃まで沸いていて、素晴らしい環境で飼育出来ていた訳だが3年でその環境は変化してしまい、そのあたりは下水道が整備されすっかり糸ミミズもミジンコも採れなくなっている。

 これは日本全国どこでも同じような状況が起こっているようで、東京でも昔は荒川の河口とかで随分採れていたようだが、だんだん採れなくなって輸入物も多いときく。その川の(俺の地元の)ミジンコの沸き方は凄いものがあって、ある時橋のしたに凄く沸いていて、角網(金魚用の一番デカイ物)で掬ったら、1Mくらいで進まないようになる位、(つまりそれだけで1,2KG採れた)沸いていたし、またある時はやはり汚水が流れてる様に見える位2M幅位で20M位うじゃうじゃしてたり、と、らんちゅうヤッテル人から見れば涎がでそうな環境が3年位前までは有った。

 

 で、減少した糸ミミズを求めて色々捜したが見つからず、やがて或る人の話で近県にいると聞いて高速で1時間近くかけて、採りに行っていたがそこもやがて他に広まり、乱獲がたたって今や風前の灯火。

 思い起こせば、市内で見つけて最初のころはどぶの中に入ってゴム手をして採っていたし(思い出しても臭かった)、すぐに入らなくてもいいように厨房用品を扱ってるところで、ステンレスのラーメンの湯きり用の網を買って、それを竹ざおに針金で固定し、場所に合わせて長いのや短いのと何本も作り、どぶの近所に住む人に変な顔されながらよく採りに行った。仕事やってる時には、出ないパワーや名案がどんどん湧いて来るから不思議だ。

 

 で、その豊富に取れた糸ミミズだが確かに太りは良いし、(こんなに成長させてくれる餌は皆無)コンディションはいいし、体色は抜群で、が、しかし、水はメチャクチャ汚れる。丸鉢などほっとけばすぐ、水がとんこつラーメンのスープ状態になるし、当然ほっとけば稚魚は病気になるし死にもする。水替えが大変になるのは間違いない。

 特に夏場水温が35度を超えるような時は、その時間与えるべきではないし(日中という事)そうゆう時期はそんなに金魚も大きくならない。

 

 糸ミミズに不自由しなくなった年こそ、品評会での結果はたいした事無かったが、翌年やっと結果が出た。その年は12腹ぐらい卵をとって、殆どがTさんのと師匠の系統を掛けるというずっとそれまでやってた事をつずけていたのだが、たしか6月の中旬に採った(その年さいごの採卵)Tさんの系統どうしでとったものからその1尾は出た。

 その1尾はその年結果的に準優勝したのだが、5月の始めに採った師匠の系統からいいのが結構出て、これも1尾3位に入った。その5月生まればかりに集中して育ててた9月の終わりに、すっかり淘汰され2鉢のみ残った12,3尾の中からその準優勝魚は突然頭角を現した。

 水温が下がり始め5,6尾になったモルタルの丸鉢で、そいつは俺に「今年はこれで勝負出来る」とそれぐらい凄い存在感を示してくれた。水替えの度に見せるその素晴らしい、後ろ、金座、尖った顔、腹だし、全てが今までうちで創り得なかった当歳がその姿を洗面器の中で見せてくれる。その頃撮ったビデオを今見ても、あいつ以上のものはその後出てこない。

 この年から、品評会での俺の金魚の評価がやっと認められた年でもあった。やっぱり糸ミミズの力は凄いと思った。当歳がベスト10に初めて入り、それも2位、3位と予想以上の結果だったし。それとやはり、人工授精が上手くなったのも原因だったろう。これもIさんと知り合えたお陰だが。

 

  失敗続きの人工授精

 そのIさんは獣医なのだが、最初に出会があったのは、土佐金でなく出雲なんきんが結びつけてくれた。金魚の師匠であるN氏に「10月10日がなんきんの品評会だから」と土佐金に出会った次の年の夏、遊びに行った時教えて頂き、その体育の日に出かけた。そして会場に行った時、Nさんが「あんたと同じ土佐金の会の人が来てるよ」と紹介してもらったのがIさんだった。年は偶然俺と同じだったが、飼育歴は大先輩で、今も随分アドバイスを頂いている。

 その1ヶ月後に初めて参加した土佐金の品評会場で、再び会い、それ以降本当にいい付き合いをして頂いている。魚病の治し方とか、選別、とにかく色々教えて頂いた。

 その頃はまだ自然産卵をしていた頃で、3月になればホテイアオイを探しまわり見つけると、プラ船にヒーターを入れて3月中には産卵をさせていたのだが、土佐金は自然産卵だと非常に受精率が4月,5月頃までは悪い。尾形のせいで追うのも追われるのもへたで、たまたま水温の上昇している時は7,8割受精した事もあるが殆どが5割以下で中には1割以下とかも有った。

 師匠もずっと人工授精で、温暖な高知以外では人工授精が有効と言われていたが、私はその方法を教えてもらえず(自分で覚えなさいと言う事なのだが)、それをIさんに言うと「僕は人工授精以外したことないですよ」と言う事で、教えては貰ったが、電話で聞いただけでは中々実行してもうまくいかず、失敗ばかりしていた。

 しかし教えてもらった翌年、やはり最初のころは全然駄目だったのだが、何回目かで自分なりのやり方でやると9割以上受精した。それはその年度々使ったオス魚が、いわゆる絶倫で、何時でも発情しててメスが卵をこぼしそうな時すぐ、精子を出してくれる体もでかい更紗のオスだった。ほぼ同時に肛門を向かい合わせにこすれば、精子と卵が出てきて、どんどん卵が透明になって(受精の証)、俺は満足感に浸っていた。その後はIさんや師匠と同じで人工授精ばかり。しかし当然数多く孵化するので、選別に追われる日々が続いたが。

 

 人工授精が何でもなくなると掛け合わせを、自分で選べるようになった。師匠に言われた丸手と長手の掛け合わせ。しかし現実にはそんなにうまくいい魚が出来るわけではなかったが。

 まだまだ未熟な腕〔今もそうだが〕だったので、せっかく沢山生まれても選別が悪くて秋にいい物が残らない。翌年ひっくりかえるとか、中々選別も上達していかなかった。

しかし、ミジンコと糸ミミズが豊富だったのも幸いしたのか、数年後当歳で準優勝と言う結果が出た時に、初めて選別と言うものが掴みかけたと実感した。

 

 それまでは「もう少し様子を見よう」と残した稚魚は結局殆ど処分と言う繰り返しで、無駄な努力ばかりしていたのだが、高知のTさんが初めてうちに来てくれてその時餞別を教えてくれた。その時に教えてもらって、どんどん捨てる事が出来るようになった。

 その準優勝魚は明け2歳のいわゆる兄弟掛けで(人間で言う近親相姦)、禁じ手に近いものであるが、その通り2000以上生まれて残ったのはわずか3尾という確率の悪い物であったが、その1尾だったのだ。片腹、尾芯つまみ、その他土佐金の悪いとこが全部出た悪い腹の典型であったが、秋にきずいたら2鉢しか残ってなかったその中にそいつはいた。